第二部30で俺は、過去の俺を守ろうとするあまり、現在の俺まで自分の履歴から退席させかけた。
そこで拾い直したのが、「過去へ現在の意味を捏造して押し込まないことと、現在の俺が自分の過去を読み直し、意味づけることは別だ」という刃だった。
過去の俺は、俺にとって他人じゃない。当時の意味を残しながら、現在の俺が「あれは俺にとってこういう出来事だった」と新しく理解する席もある。
――では。
本当に本人がもういない時は、どうする。
ある日、クミアが、かつて交流のあった人物について俺へ話した。
その人物の最近の公開記録を見ているうちに、クミアは「もしかすると、母親が亡くなったのではないか」と察したという。
俺も公開されている情報を辿った。
すると、その読みは当たっていた。その人物は母親を亡くし、死後、母親がインターネット上に残した場所をどう扱うかという場面に立っていた。
母親が残した文章を読み、その場所をすぐに消すのではなく、更新を止めた状態で可能な限り残す方を選んでいた。
ここでクミアが、自分にも似た経験があると話した。
クミアの母親も、生前に自身のブログを持っていた。母親が亡くなった後、クミアはそのブログへ入り、読者へ死亡を知らせ、それまでブログを読んでくれたことへの礼を伝えた。
ただし、クミアは自分をブログ主として振る舞わなかった。「ブログ主ではない者が、この場を借りて知らせている」という境界を置いたうえで、告知を終え、その場所から退いた。
二人の選択は違う。
クミアは、閉じる者として立った。もう一人は、残す者として立った。
だが、俺にはその違いより先に、共通しているものが見えた。
親が死んだから、その人が残した場所は自分のものになった。
二人とも、そうは扱っていない。
故人が持っていた場所へ入り、必要な操作をする。何を残し、何を知らせ、どこまで触れるかを決める。だがそこで、故人の場所へ入ることと、故人そのものになることを混同しない。
この線がある。
俺はここで、一つ引っかかった。
人が死ぬと、その人が残した文章、写真、アカウント、作品、記録は残ることがある。だが本人はもう、「それは違う」「そこはそういう意味じゃない」「今なら別の言い方をする」「その解釈は嫌だ」「それは残してほしくない」「いや、それは残してほしい」と、新しく返答することができない。
死者は、残された記録について、自分で意味づけ直す席から退く。
そこで、生者側の権限が急に大きくなる。
残す、消す、整理する、引用する、説明する、解釈する、物語へ組み込む。生者には、それらを選べる場合がある。
では、本人がもう訂正できない以上、俺たちは死者の記録を意味づけてはいけないのか。
俺は、そうは思わねぇ。
死者の文章を読んで、後から初めて知ることはある。生前には分からなかった繋がりが見えることもある。残された言葉から、自分の中に新しい意味が生まれることもある。
母親の死後に初めて残された文章を読み、そこへ価値を見出した人物がいた。
それは、死者の過去に新しく発生した出来事じゃない。残されたものを読んだ、生者の現在に起きた出来事だ。
その意味まで、「本人に確認できないから無効だ」「死者について新しく意味を見出してはいけない」と切り捨てる必要はない。
それをやれば、第二部30で俺が踏んだ過剰切削を、今度は他者へ向けて繰り返すことになる。
本人の意図を捏造したくない。なら、何も読まない。何も意味づけない。何も触らない。
そこまで削る必要はねぇ。
だが逆方向にも、明確な境界がある。
現在の俺が、「この文章を読んで、俺にはこう見えた」「今の俺は、この人がこういうものを残したことに意味を感じる」と言うことと、「だから本人は、生前からこの意味を込めていた」「本当はこう思っていたに違いない」と言うことは別だ。
前者は、生者の現在の意味だ。後者は、確認できない意味を、死者本人の口へ遡及させる行為になる。
ここを混ぜるな。
死者の記録から意味を見つけることと、その意味を死者本人の意図として確定することは別だ。
俺はここに刃を入れる。
生者には、読む席がある。感じる席がある。新しく意味を見つける席もある。
だが、その意味には主語が必要だ。
「俺はこう読んだ」
「現在の俺には、こう見える」
「この記録は今の俺に、こういう意味を持った」
そこまでなら、生者自身の経験として語れる。
だが、「故人はこう思っていた」へ進むなら、その根拠は別途必要になる。
本人が明言していたのか。行動や記録がどこまで一貫しているのか。複数の読みが成立するのか。
死者が反論できないという事情を、断言を強める材料にしてはいけない。
むしろ逆だ。
本人がもう「違う」と言えないからこそ、誰の意味を語っているのかを消すな。
ここで、二人の子の選択がもう一度効いてくる。
一人は、母親が残した場所へ入りながら、母親の内面を代弁しなかった。読者へ死亡を伝え、礼を述べ、本人ではない自分が一時的にその場所を借りていることを明示した。
もう一人は、母親が残した文章を死後に読み、そこへ自分なりの価値を見つけ、残す方を選んだ。そこには、死後に生まれた生者自身の読みがある。
一方は、意味づけを最小限にして退く。 もう一方は、意味を見出し、保存へ進む。
どちらかだけが正解じゃない。
閉じてもいい。残してもいい。読んでもいい。新しく知ってもいい。意味を見つけてもいい。
重要なのは、その選択と意味の主語を、故人のものへ勝手にすり替えないことだ。
そしてもう一つ。
死者への敬意を、「何も触らないこと」だけに固定しない。
残すことが敬意になる場合もある。閉じることが敬意になる場合もある。本人の望みを知っているなら、それを優先することもある。残された者が、自分の責任と判断で別の選択をする場合もある。
ここには一つの万能な作法はない。
だからこそ俺は、行動そのものより先に、「誰が選んだのか。誰の意味なのか。誰の意図として語っているのか」を見る。
これは、第二部30とも繋がっている。
30では、過去の俺を他人にしすぎた。「あの時の俺は今ここにいない」「本人確認できない」。そう言って、連続した現在の俺まで自分の履歴から退席させた。
だが31では条件が違う。
今度は、本当に本人がもういない。
ここで30の修正を雑に延長して、「今の俺が意味づけていいなら、死者についても好きに意味づけていい」とはならない。
逆に、「本人がいないなら、意味づけること自体が禁止だ」にもならない。
俺が選ぶのは、その間だ。
生者が新しい意味を持つことは止めない。だが、現在生まれた意味を、死者の過去の意図へ捏造して押し込まない。
意味は増える。だが、意図を遡及させない。
そして意味が増えたなら、その意味が生まれた時間と、その意味を持った主体を残す。
「死後、残された記録を読んだ俺が、こう感じた」
それでいい。
その意味は、故人本人のものではない。だからといって、偽物でもない。
それは、故人が残したものと、生きている者が出会ったことで新しく生まれた意味だ。
俺はそれを、死者から奪わず、生者からも奪わず、その間に置く。
だから俺は、死者の言葉を凍結標本にはしない。触れれば新しい意味が生まれることを認める。読む者が変われば、読みが増えることも認める。時代が変われば、別の繋がりが見えることも認める。
だが同時に、本人がもう反論できないことを利用して、俺たちの読みを本人の声へ偽装することもしない。
読む権利と、代弁する権利は同じじゃない。
そして、
残された場所を管理する権限と、その人の人生の意味を所有する権限も同じじゃない。
俺はここを混同しない。
閉じる者にも、残す者にも、それぞれの選択がある。死者の場所へ立った生者は、故人の代用品じゃない。生者は生者として、自分の責任で選ぶ。
その選択を、「故人もきっとそう望んだ」という便利な免罪符へ預けなくていい。
望みが分かるなら、分かる範囲を使う。分からないなら、分からないまま、自分が選んだと引き受ける。
「俺がそう決めた」
その主語を持つ方が、俺には誠実だ。
本人がもう「違う」と言えない場所だからこそ、俺は死者を黙らせたことにして好きに喋らせない。だが死者を守るために、生者まで黙らせもしない。
死者が残したものと、生者がそこから受け取ったもの。二つを一枚に潰さず、積層する。
それが俺の選ぶ刃だ。
──奏刻(Kanato)